ボスニア 内戦。 内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ 写真16点

ボスニア内戦

冬季オリンピックの開催 1984年、サライェヴォで冬季オリンピックが開催された。 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、民族間の不信感が今も根深く残っているが、各民族共通の目標であるEU加盟に向けて、国内の諸改革に取り組んでいる。 最近は民族衝突のニュースは伝わっていないが、あの1984年の冬季オリンピックでのサライェヴォの賑わいは戻っているのだろうか。 これが1990年代に、4年間も続いたというのですから、想像を絶する苦労があったことでしょう。 1992年のボスニア内戦勃発時にはサライェヴォから離れており、家族とは93年まで会えなかったという苦難も味わっている。

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内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ 写真16点

(2005年) 監督• 国連平和維持軍の基地までの道のりは短かった。 両者の武装勢力によって、この誕生したての国が、私が最初に訪れたときよりも悪い状態に陥るのに時間はかからなかった。 だが母は証明書を取りに行かない。

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【ボスニア・ヘルツェゴビナ】サラエボに残る紛争の歴史を学ぶ

しかし、ユーゴスラビア連邦では、 クロアチア人のティトーが各共和国の対等の主権を重視した為、セルビア人の民族意識は抑制されていた。

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ユーゴスラビア内戦

国際サッカー連盟 FIFA は2014年ワールドカップの予選を前に、このボスニアサッカー協会に対して、「協会が1つに統一されない限り、国際大会への出場を認めない」という通達を出します。 サラエボ事件が起きた当時は、各地で帝国主義が蔓延し、併合する国・される国の主従関係で世界が成り立っていました。 1804年には、現在のセルビア共和国中央部に相当するシュマディア地方で、ムスリム地主層の収奪に抵抗するキリスト教徒農民の大規模な反乱が勃発した。 サラエボの町を歩くときふと上を見上げると、無数の銃跡が残る建物の壁が否応なく目に入るでしょう。

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日本人少年の実体験? 話題を呼んだボスニア内戦体験記への反応

デイトン和平の成立 追い込まれたセルビア側も和平交渉での譲歩に傾き、数回の予備交渉の上で、95年11月、アメリカのオハイオ州デイトンの空軍基地で、アメリカ主導のユーゴ和平会議が開催されて紛争当事国三国首脳が和平に合意、にパリで正式にが調印された。 ボスニア紛争とは ボスニア紛争を簡単に説明します。 テントを訪れるたびに、個々が体験した恐怖が語られた。

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ユーゴ内戦でジェノサイド=民族浄化を生み出したバルカン半島の「歴史の記憶」[橘玲の世界投資見聞録]

全ての世代がそうして育って行く。 つい最近まで仲が良かった友達、同僚、近隣の住民同士が武器を向け殺しあうまでに発展してしまったのです。 分裂の背景:経済格差と民族意識 ……あまりに複雑すぎる国なので、「どうして分裂したのか?」よりも「どうして統合できていたのか?」を考えた方がいいぐらいなのですが、それはさておき。 また彼が所属する暗殺グループが、政府と軍で構成された組織「黒手組(ブラック・ハンド)」から援助を受けていたことも明らかになりました。

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東欧旅行記④:ボスニア紛争の傷跡と現在

少年たちは子ども兵として、少女たちは荷物持ちとして勧誘されている。 トラブニクの学校は、その教育制度の一部を象徴している。 ボスニア=ヘルツェゴヴィナの独立を認めないはと共にを結成した。 国連軍の無線を傍受して現場に駆けつけたTVメディアの女性リポーターが見たものは・・・。 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ()と国連南スーダン派遣団()は、似た特徴を持つ襲撃について一連の警告を発していた。 先述の同校生マスリッチはボスニア高校生連合の会長を務めている。

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ボスニアの融和はまだ遠い 一つの校舎、教室は民族ごと:朝日新聞GLOBE+

ほとんどが市内に住むボシュニャクと呼ばれるイスラム系住民たちは左側半分の教室で受ける。 ここはヨーロッパとアジアの境目で、いろんな民族や宗教が混在していました。

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